型にはとらわれないのを目指すけど、形はすごく大切
なんやかんやで久しぶりの投稿になりました。
環境によっては更新頻度が維持できないこともありますが、でもとりあえずは「それでいいのだ」
この週末は私のやっている中国武術「意拳」の練習会でした。
かれこれ4年から5年くらいやっているのですが、いまだに先輩たちには歯が立ちません。
先輩たちもどんどん進化しているからだと思います。
その先輩たちは、自分たちの技などまだまだだと言っています。
この間隔をどうやって縮めていけるかが自分の中の「上達感」につながるのだろうと思っています。
さて、意拳に限らず、武術は身体の力の抜き具合がとても重要になると思いますが、では、実際に対人実戦となるとなかなかそうはいかないですね。
そこには間違いなく「力」が発生しますから、力が抜けた状態の強さを信じられない自分がいると、ほぼ間違いなく「力み」が発生するはずです。
一般的に言われる武術における「力を抜く」は、要するに「力まない」という表現の方が合うのかなと最近思うようになりました。
そのためには、作用点において発生する「力」に対して、筋肉による「力み」で対抗するのではなく、人間の体が本来持っている構造の力を最大限に発揮する「形」を習得し、それを「信じる」ということだと思います。
自分の技を「信じて」いないと、簡単に筋肉モードに移行してしまい、単なる力比べになってしまいますので、こうなると力の強い相手の思う壺になってしまうような気がします。
意拳においては、「力み」を無くした状態で発揮する人間の構造の力の修得を目指しているのだろうと自分では思っているのですが、今回の練習に参加して、さらにその感覚が強くなりました。
最初に書いた「形が大切」は、実は一般的に言われる武術や武道における「型」とは意味合いが全く異なると思ってください。
実は昔空手もやっていたので、型をやったことがあるのですが、ここで取り上げた「形」は所作における身体の形のことであって、防御や攻撃のルーチンをまとめた「型」とは全くイメージが違います。
ここで言っている「形」とは、「型」におけるそれぞれの動きはそのものが「どう在るか」かということです。
そして、その形のときに、身体の中はどうなっているか、というのも重要です。
外から見て同じような形をとることは簡単です。
ですが、こういった「技」の世界においては「中身がどうなっているか」がとても重要になります。
なので、練習においては、「果たして自分の発揮している力が、本来目指すところの技や形を習得できたことによるものなのか、単なる力比べによるものなのか、を正しく見ることができるかにかかっていると思います。
もちろん、複数人で練習していると、実際に目に見える「他人との比較」も生まれてきますから、 「正しく現状を把握する」ということができるかどうかがその人の武術家としての根底を測ることになると思います。
でも、そこに着眼してしまうと「練習中という条件の中での自己満足の勝利」なのかもしれないですね。
武術の練習中においても、自分の「心のあり方」がとても重要になると思ったのでした。