刑務所が老人ホームになってしまっているそうな・・・
今朝のNHKのニュースを見ていたら、受刑者の高齢化が進んでいるそうだ。
そして、なぜそうなのか?
受刑者の数は減少傾向にあるのに、高齢化が進む。
それは、社会復帰しても居場所がないという社会の現状を示している。
取材に応じていた70代の男性。
その人生を少し垣間見たとき、少し心が痛くなった。
彼は幼少の頃、父親から虐待を受けていて、焼けた薪を腹部に押し付けられて今でもその痛々しい火傷の痕が年老いた肉体に残っている。
これは、身体の傷だけではない、もっと大きく深い傷が心に残っているはずだ・・・
その人の罪状はというと・・・「放火」
22歳で初の服役
そして、それから出所するたびにすぐに再販して再び刑務所へ、ということを繰り返して、刑務所の中での生活が30年以上になるそうな。
そしてその方の最後の犯行が我々山口県人には記憶に残る10年前の下関駅を全焼に至らせた放火事件。
懲役10年となって1年前くらいに出所したらしい。
そして今ではNPOの運営する施設で生活されているそうだ。
だが、前と違うのは、「人の役にたてること」を見つけられたこと。
NPOに届く玄米を、精米機で精米する作業をしているそうだ。
それはほんの小さなことかもしれない。
でも、「自分が誰かの役に立てる」という喜びを知ったことで、現在、その人には居場所があり、とても良い笑顔で生きておられる。
じつは、「心の問題」というのが一番深刻な問題なのだろう。
若かりし頃は、身体はもっと元気で、働こうと思えば仕事をして糧を得ることもできたはずだ。
だけど、働くことがその人にとってとても苦しいことであったとしたら、人間関係がうまくいかなくて辛かったとしたら、居場所ってのはなかなか見つけられないものだろう。
「そんなの甘えてる」という人もいるだろう。いや、むしろそう思う人の方が多いはずだ。
でも私は思う。
他人の過去はともかく、「全うに働いて当たり前だ」という世間一般では常識に見えることが、いろんな理由で実はとても困難になってしまう人たちがいるのだ。
そういう人たちにとってはそういう「ごく当たり前なこと」「常識」という見方をされると、それはとても大きな苦痛となってしまう気がする。
犯罪を犯したり、働かないことを正当化するつもりも、賞賛する気もない。
だが、すべての人が同じ常識の中で生きられるわけではないことを認識する必要はあると思うのです。
で、話をもどすと、出所した方を支えているのはNPO。
行政ではないのです。
ここでもまた、行政の限界を感じたわけです。
でも、協働することはできるはず。
単なる「公平公正」という言葉ですますのではなく、人を生かせる、活かせる行動ができないか、どうやったらできるだろうか、そんなことを考えました。