子どもの目には親の愛は見えない?

親は子どもの存在をどう思っているのか?

大切な存在?

うざい存在?

最近、児童虐待とかあるけど、ほとんどの親は子どもに対して愛を持っていると思います。

でも、「愛」って見えますか?

夫婦同士でも見失ってしまうことがありますね(笑)

愛という言葉は多用されるけど、実は非常に分かりづらい概念です。

今日は親の視点と子どもの視点ということで思いついたので、次のようなイラストを作ってみましたよ。

これは自分がかつて子どもだったときのことを思い出しながら作ってみました。

このイラストの大事な所は中程の四角の中の「存在に対する◎」のところです。

これは先程の親が子どもに感じている「大切な存在」ということです。

大人からすると「当たり前」だってことはわかります。

でもこの「当たり前」がいろんな人間関係を難しくしているとも言えるのです。

それに相手は子どもです。

大人よりも遥かに情報量は少なく、経験もありません。

そういった心の裏を読み取る能力なんてないはずです。

ここで一つ。でも、「感性は鋭い」のですね。

これは「感じる」能力。

でも、子どもはこの感じる能力を全開にして親の表情を見ています。

「自分に対する『評価』がどうなのか」に集中して。

(ここにも一つねじれ現象が生じているというのは今回の私の気づきです。感性は感情、評価は思考だから。)

すると子どもの意識の集中するのは、2元論的でデジタルな「○か☓か」になってしまう。

これで世の中が○か☓かの2つにくっきり分かれる世界が生まれる。

子どもにとっては「それ以外にはなにもない世界」が広がっている。だから、○に入らなければならないのです、必ず。

でも、絶対にあるはずです。

良かろうが悪かろうが、優れていようが劣っていようが、存在することに対する絶対的な「良い」、「○」が。

この、「存在に対する○」こそが、子どもにとっての「愛」だと思います。

子どもにこの「愛」を感じてもらうためには、親が意識的に表現する必要があります。

それは2元論的世界のほうが圧倒的に表現される世界だからです。家庭も学校も、そうじゃないですか?

「良い」「悪い」で分けられる世界。こっちも「当たり前」だからです。

片方の世界がいつも強調されていると、表現されない世界は「不要」もしくは「無い」ことになってしまうし、そもそも受信できないので比較のしようもない。

 

現代の子どもたちはどんどん生きづらくなってきているようです。

それは、自己肯定感の低下という形で現れている気がします。

そもそも「自己肯定感」というのは、「自分が存在しても許されること」が1番根本。

しかし、親や学校からは「良い」か「悪い」、「優れている」か「劣っている」という感じで、2元的に評価されることがほとんどです。

子どもは「良い」と評価されたいから、いつも評価に怯えています。「悪い」「「劣っている」という評価を得てはならない、と思っています。

でも実は「良い」であろうが「悪い」であろうがどうでもいいことってたくさんありませんか?

人は一人ひとり違います。

だから「違う」のは当たり前なのです。

それを「個性」と読んでいますが、それだけでは成長の指標も無いので「評価」を作っています。

でも、そういった社会の評価基準に合わなくたって、立派な人はたくさんいましたね。

ということは「評価」というものにあまり縛られる必要はないということなんですが、親世代自身が「お受験」だったりとか、「受験戦争」の世代になって、他人からの評価に対してものすごく敏感な生き物になってしまっているのですね。

もちろん、会社や組織、社会そのものもそういう雰囲気に飲み込まれてしまっています。

無意識に評価されることが前提の世の中です。それも、本当に意味のある評価なのかどうかもわからないのに。

でも、親である大人も決して悪いわけじゃないんですよ。だって、自分たちにもわからなかったことなんだから・・・

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