罪悪感を植え付けられていないか?
罪悪感というのは一番厄介なものかもしれない。
自分は悪い存在である、というのは宗教的に一般的ですね。学校でも習う「原罪」とかいうやつですね。
人間は生まれながらにして罪を積んでいる、という。
社会の中で教えられること。
他人に迷惑をかけてはいけない
親に迷惑をかけてはいけない
こういうルール的なものは、それから外れた行動をとったり、取らざるを得ない事情があったとしても人の心に罪悪感を植え付ける。
申し訳ないけど「自分は悪い存在だ」なんて思っている人間に、明るい未来なんて来ない。
「自分は悪い存在だ」と何度も何度も思うことで、それは「罪悪感」という呪いに変わってしまう。
ちなみに、今まで罪悪感を感じている多くの人たちと会ってきて、私の目から見て本当にそうだった(悪人だった)人は1人もいない。
むしろ、「良い人」なんだ。
「他人のために」「社会のために」そういう思いが強い人が多い。
結局、そう言う人たちは自己犠牲をするのが当たり前になってしまって、それでも他人が良くならないと、社会が良くならないと、自分がまだまだだからだ、自分の力が足らないからだ、なんて思いつつ、頑張り続ける。
それが「考え方、認識のしかた」の癖になってしまって、本当にそれが自分の中でも当たり前になる。
量子論的視点では、人の意識が現実を生み出すわけだから、どうなるかはわかりますよね。
さて、こういった社会のルールだったり、道徳観が生み出す罪悪感もあるけれど、世の中にはこれを使って人を縛り付けているものが沢山ある。
それは「組織」だ。
職場、学校、宗教団体、もろもろ。
ルールを作って守らないものはつまはじきにされ、もしくは罰せられるという恐怖による呪縛を生み出す。
職場は、経営者の都合の良い労働者であらせるために
学校は、管理しやすい生徒であらせるために
そして宗教団体は、その神の僕としての権威を守るために、そしてそれを支える組織を維持するための資金源であり続けてもらうために
特に宗教団体は沢山の呪縛を課しているはずだ。
冒頭に出てきた「原罪」しかり、「辞めると不幸になる」とか、「心で感謝しているだけじゃダメでお布施(お金)を納めないと感謝したことにならない」とか、「先祖供養をしないと悪いことが起こる」とか。
「例会に参加しないとダメだ」とか、人の自由な行動を制限し、物理的にも束縛したり依存させようとする仕掛けが沢山ある。
「罪悪感」という呪いを多用しているのが実は宗教団体じゃないかと思う。
そもそも宗教とは何のために存在しているのか?
人を幸せにするためじゃなかったか?
人が幸せであるための条件を一番知っているはずの宗教者が、真逆の働きかけを信者にしている姿を見ると、本当に怖いなーって思う。
多分、本人も幸せになれないだろうな、なんてね。
まあ、本人たちはそれで幸せだと思っているんだから、余計なお世話には違いないわけだけど(笑)
先日、OSHOの禅タロットで引いたカードの解説にこんなのがあった。
禅はこう言うーー偉大な言葉と偉大な教えは生死を分ける敵だと思うがいい。
(中略)
信じる者たちは宗教的ではない。彼らは信じることで、宗教の最大の冒険を避けているだけだ。
全文を引用しているわけではないので、この部分だけで判断はできないだろうけれども、僕が印象的だった部分はこのくだりなんですね。
人として生まれて「生きる目標」があったとして、過剰な罪悪感を抱えたり、ましてや人に罪悪感を植え付けるとは、どういう結果をもたらすのか?
しっかり考えないといけないんじゃないかなぁ。
ひとの良い人や、真面目な人こそ、つけ込まれやすいから、十分気をつけてくださいね。
今、「自分が自分に対してどう思っているか?」静かに感じてみませんか?