「真実とは、問いかけることにこそ、その意味もあれば価値もある」
今日、ふと思い出したこの言葉。「ジャイアントロボ 地球が静止する日」の劇中で出た言葉です。
以前、宗教(教え)がこわいのか、それとも人間の集団がこわいのか、みたいな投稿をしましたが、これはその続きのような感じだと自分では思っています。
宗教を否定するわけではありません。特に「教え」を。
「一番わかりやすい例としてとりあげてみただけ」と思って読んでください。
私はどちらかというと神様とか仏様とかには関心が深い方で、旅行などでは神社仏閣巡りなんかがシットリして好きですね。
しかし、こんなことを言いますと、神社仏閣に行くことと宗教に造詣が深いということは意味が違うと思われる方は多いと思いますが。
ただ「宗教とは問いかけることを止めてしまうもの」というイメージが強いです、私の中では。
と、言いますのも、そもそも宗教とは、「人間を超越した存在の教えである」というところが出発点になるので、悩み多い人間の探している「答えが存在している」というところがウリなわけです。
「これが答えだ!」
だから、「その教えに従ってくださいね(従っていればよい)」
はい、終了。
あとは教えに従った行動の繰り返しで悟りまで近づいて行く。
だいたい、こんな感じじゃないですかね?
そして、悩んだり不幸なのは「その教えに反しているから」であって、基本的に「人間側に問題がある」という位置付になってしまうと思うのです。
だから、どんなに教えに忠実に頑張っているつもりでも、現実が救われないときはとにかく、言い方は悪いですけど「その人が悪い」で片付けられてしまうのです。
まあ、その通りかもしれませんがね。
何度もい言いますが、「教えが悪い」とは全く思っていません。
じゃあ、何が言いたいのか?
導く側も、信心する側も、「教え」を「絶対的答え」としてしまって、考えることをやめてしまってはいけないのではないか?ということなのです。
残念なことに、教義教理として定義すると、導く側は絶対にこれを否定できません。その宗教を布教する立場の人間としては、そんなことできないでしょうね。さらに疑問を持つなんてありえない。
それでは、導かれる方の人はどうでしょうか?
まあ、いろんなことがあって、苦しみから脱したいとか、幸せになりたいとか、いろいろあると思いますが、要するに「答えが欲しい」
それも最短距離で。(笑)
さあ、どうでしょう?教える方は「これは真実であり、答えです」というしかなく、教えられる方は、最初はそれを鵜呑みにするのが楽
でよい。
なんだか、奇妙な依存関係が見えてきませんか?
それともう一つ言えば、教義教理は「言葉」で伝えられますが、果たして「言葉」というのは正しく意味を伝えることができるでしょうか?
会議をするとき、同じ言葉を使っていても、意外にも共通認識がとれていない感じがすることがありますね。
いろんな角度から、いろんな言葉で「対話をくり返す」ことで、だんだんと同じイメージがお互いの頭の中にできてきます。
信実は人の数だけある
同じ言葉を聞いても、受け取り方は千差万別
当然に教えのねじれ現象も起こり得るということになります。
さて、この世に神や仏がいるのなら、キリストやブッダは私たちに何を伝えようとしたのでしょうか?
人間に何を求めたのでしょうか?
神の教えを「ただ信じている」人間が増えることを、神は本当に喜んでいるのでしょうか?
神や仏の教えは「何のために存在しているのでしょうか?」
それは「人間を成長させるためだ」と私は思っています。
そのためには、神や仏の教えを知ることは良いことだろうと思います。
ですが、その広く、深い教えをしっかりと自分のものとして吸収するためには、「その意味は何か?」を問い続けていくというプロセスが重要なんじゃないかな?
「これで極めた!」と言ったら最後、「絶対的にそれ以上はない!」ということになってしまう。
実は、それってあまり意味がないのではないか?そんな簡単なものじゃないんじゃないか?って思うんですよね。
未熟であるがゆえに(笑)