教育と情報、真偽と可能性
今日は節分。明日は立春です。暦の上では春を迎えますねー。
この1ヶ月、色々と考えたことがありました。
今まで当たり前のように思っていたことは、子供の頃からの親から教わったり躾けられたりしたこと、学校教育で学んだこと、属した組織や関わった人たちからの情報から成り立っていますね。
それが当たり前になっているということは、それが真実であると認識しているとも言えます。
嘘だとわかっていて「それをあたりまえのこと」とは普通思わないですね。
では、自分が当たり前だと思っていることを、実はどれだけ知っているのかというと、実は結構いい加減だったりします。
「それが正しいと言われたからそう思っている」だけのことって多くないですか?
それが真実であると確信する何かが自分の中にありますか?
大体のことが、「誰かがこうなんですよ」って言ったことを、そのまま信じている場合が多いと思います。
それでいいのだろうか?
そんなことを思ったわけです。
人はそうやって自分の中に思考や行動の根拠となる価値観を作りながら生きていく。
それはいい。
ただ、何の根拠もなく、自分自身の実感もないままにそいういった価値観を固定化してしまうのはなんだか恐ろしいことのように感じるのです。
単一思考、二者択一的な判断。
これを言葉を変えるならば、「ブレない人」「分別のはっきりできる人」
ものは言いよう。
たしかに言葉は大事だ。
だが、それが適切に使われているかどうかも自分が判断するしかない。他人が言うからそれでいいわけじゃない。
こう言うことを言ったときに、「あなたは反対の考えをしているのですね」的な反応が帰ってくることがきわめて多いが、これこそが二者択一的な思考だと思っている。
1つの事案を「正しいと思わないこと」は、「正しくないと思っていること」であるという解釈の仕方だ。
人はこうやって自分の味方かそうでないのかを判断している。
近年は特にこういった2極的思考が定着していないだろうか?
よく言われるのが「善悪」でものを見ること。
「善」か「悪」か
「右」か「左」か
世の中は必ずこの2つのうちのどちらかだ、なんて思っている人。
それは真実ですか?
こういった、本当に根本的でシンプルな価値観や観念が、自分の思考や行動の元となっているわけだから、真剣に考えた方が良いと思う。
自分の考え方や生き方がどうであれ、時代や環境は常に変わり続ける。
ここも重要だ。
変える必要のないものももちろんあるが、環境の変化に適応していかなければならないこともある。
だから「変わって当たり前」なのだ。
変わってはいけない理由はそんなに無い。
ということは、「◯◯なのだ」と断じた瞬間に自分の観念は固定される。
その瞬間はそれでしようがないのだけれど、それがずーっと続いていいのかというと、実は場合によりけりではないだろうか。
とにかく「環境は変化し続けている」
その中で、自分の生きる上での思考の判断基準となるものは、
教育 他者から注入された情報と価値観
情報 (自分の外に存在する)他人の言っていること
真偽 正しいのか、正しくないのか、という考え方
これらをベースにしながらも、
可能性
「かもしれない」という、真実を求めていく姿勢を持ち続けることで、その瞬間、その瞬間の進むべき道を見つけるか、見つけられないかにつながっている気がする。
これまで当たり前だと思っていたこと、実はほとんどがよくわからないことだということに気付いたとき、「生き方」が変わる気がする。