「定義する」ことの恐ろしさ
1ヶ月以上ぶりの投稿です。
この間、忙しくもあり、素晴らしい体験もありました。
伝えたいことはたくさんあるのですが、日々に追われている始末です(トホ)
なので、「これからは短めの文章でもいいのでとにかく書こう」と思った次第
さて、今日のテーマ「『定義する』ことの恐ろしさ」ですが、これは人の思考を停止させるという点で「恐ろしいな」と感じたのです。
論理的に考えようとすると、やっぱり、何か、どこか、を定義してやらないと、なかなか考えが進みませんね。
そこで自分は「仮にこうだとすると」というふうに考えるようにしています。
これは、「これはこうだから」とは違います。
思考の土台というか、起点を作るために「定義する」わけですが、その定義が絶対に正しいのかどうかはわからない。
定義したものが大間違いだとすると、その定義からスタートした思考の行き先はとんでもないことになりますね。
だから、間違っている可能性もある中で、全体を俯瞰する癖をつけるようにしています。
まあ、ただそれだけのこと
なんですけどね。
ただ、世の中、「決めつけ」だったり「思い込み」だったりによって、なんだか苦しそうな人が多いなと思ったもので。
まあ、自分もそうでしたけどね。
10人いれば10人の考え方がある。
ということは、自分の考え方が正しいなんて、確信が持てませんね。
正しいか、正しくないのか、ではなくて、「自分はそう思っている」だけ。
自分にも、他人にも、可能性はあるのですね。
だから、自分を責めることもない、他人を責めることもない。
ただ、考え方が違う人間がいるだけのこと。それだけ。
もう1つ言えば、他人に対して自分の定義を強要しないこと。
「これは、〇〇です」
例え本当にそう思っていたとしても、「私は〇〇だと思っています」にしておく。
もし、相手がいい人で、間に受けてしまうと〇〇以外の可能性を考えなくなる。
そうすると、相手の頭の中には「〇〇です」が固定化されてしまい、その人はそれをベースにものを考えるようになるでしょう。
そういうふうにして人の考え方や人生を意図的に操作しようとする人たちもいますが、本当に相手のことを大切に思うなら、その人の思考の可能性を信じて、可能性を奪わないようにした方が良いと思うのです。
これは、子どもを育てるときにもそうあって欲しいと願っています。
やはり、人は自分で考えて自分で決めることが大事です
だって、自分の人生だもの。誰も責任をとってはくれないのだから。
逆に、人の人生の責任を取ることもできないし、取りたくもないですしね。