平成最後の終戦の日に思う
今日は終戦の日
先の戦争で亡くなられた方やそのご遺族、怪我や家族離散など辛い思いをされた方達に心から哀悼の意を表します。
第二次世界大戦で沢山の死者が出たことはとても残念なことで、戦争などという無益なことを繰り返してはならないと思います。
この数日、テレビのニュースでも新聞でも、ネットのニュースサイトでも「戦争の悲惨さ」をテーマにした特集が組まれています。
去年もこのブログに書いているとは思いますが、あふれているのは戦争による残酷な結果ばかりで、その発端となった事象、つまり「なぜ戦争になったのか」という点についてはほとんど語られていないのではと、とても不思議に思います。
「戦争はしないほうがいい」「殺し合いはしないほうがいい」
皆そう思う。
では、今の世界は、先の大戦の教訓をもってどう変わったか?
あまり変わってはいない。
一方で、大量殺戮兵器や核の開発は、今もまだ続いている。
そんな状況で、「それらを行使する理由」が生まれた時に戦争の形で表出する。
エゴをむき出しにした侵略行為は、今もいろんな場所で起こっている。
理不尽な行為から自分たちを守ろうという「気持ち」は決して間違ってはいない。
要は、「最初に手を上げた」という物理的な現象よりも前に「そうせざるを得ない状況を作り出した」という現実があった場合、戦争は決して武力による攻撃によってのみ始まるわけではないのだと思う。
今日、多くの人たちが追悼する先の世界大戦が、どういう原因で、どういうプロセスで始まったのかは今日語られることはない。
宣戦布告の遅れとともに始まったとされる真珠湾攻撃から、新型核爆弾による民間人の大量虐殺という国際法を全く無視した人類の歴史で最も野蛮な行為で終結した「悲惨で」「残酷な」戦争という結果ばかりを見て自己批判や反省をしても、何の役にも立たないと思うようになった。
戦争という殺人行為の悲惨さを反芻するよりも、今必要なのは各国のエゴがぶつかる国際関係の中で戦争を起こしてしまうプロセスをどう上手く回避するかということに注力しなければならない。
その意味で、「戦争を放棄する」という、いかにも見目がよい、耳障りもよい感覚をもってとらえられ、その「表の姿」だけを鵜呑みにする現状はどうかと思う。
その方向性は良いものであったとしても、それを実現するためにそうした短絡的な言葉を連呼するだけでは、理想の実現は難しいだろう。
物事には「表と裏がある」ことは、特に国際関係においては大前提としておかなければならない。
先にも述べたように、そこには国際関係の中で各国のエゴが絡むからである。
国家は国民に対して責任を負っている。
だから、自国のためのエゴを否定することは、ある意味国家としての存在を否定することにもなり得る。
そこには、国民が幸せになるということに対して責任をもった行動をするという大前提があるからだ。
だから、各国のエゴは「ある意味正しいこと」なのである。国民を守るため、国民を幸せにするためという理念においては。
しかし、どんな場面や状況、環境であっても、その行動や判断を生み出す根っこの部分である「ありかた」がとても重要になる。
「自分の国も幸せになる」そして「他の国も幸せになる」このせめぎ合いなのだね。
各国がしっかりとこれを肚の中に入れて、「せめぎ合う」必要がある。
人というのは弱いもので、どんな人も「楽に」やりたい。
自国に対する責任を果たしたという「評価」を手っ取り早く手に入れるためには、「自国が豊かになる」という結果だけがあれば良い。
国民は心地よいのだから、それで納得する。
でも、それでは人類としての進化はない。
誰かの犠牲の上に自分たちの幸せが成り立っていることを知らずに、その豊かさを盲目に享受することは、無知であるとともにレベルの低い生き方をしているといってもいいだろう。
そんな人間の集まりを作りたいのか?
それが為政者としての責務なのか?
だから、国民はただ国が何かしてくれるのを傍観するだけではなく、国の一員として「何か一つでもいいから」自分なりに「どうあるべきなのか」「どうした方が自分の国や他の国が幸せになれるのか」を考える必要がある。
「他人事になっている」ことが、間違いを生み出してしまう。
そして、物事を考えるための情報は、IT革命後の現代社会においては、インターネットからいくらでも入手可能だ。
それも、いろんな角度から。
「終戦の日」に関連する報道などから見ても、これだけの疑問が発生する。
この疑問はすぐにはすっきりしないけれども、そこで感じた「?」に実は大きな価値がある。
すぐには解決しないから、「?」はそのまま頭の隅に置いておくといい。
そんなに世界は単純にできていない。そもそも、すぐに答えがわかるはずだという考え方そのものが、人間を堕落させていくのだと思う。
わからないからといって、考えることを放棄してはならない。それこそがエゴの思うツボだ。
思考停止に入った人間ほど、操りやすいものはない。
それは「疑問をもたない」からだ。
その人の中で「これは〇〇だ」という定義が成り立つと、人はそこには疑問を持つことをやめる。
だから、謎だらけの第2次世界大戦にも関わらず、学校の歴史ではほとんど教えてもらえない、でも一番辛く、重く、今もなお多くの日本国民を自己否定で縛り続けるこの戦争のことを、単に「戦争をすると悲惨である」とか「強大な力には歯向かったら酷い目にあう」という、低レベルの因果関係の定義に留めてはならないと思う。
社会は、世界は、もっともっと複雑だ。
願わくば、誰かの言葉に従うだけの国民だけではなく、「自ら感じて、考えることのできる国民」が増えていくべきなのだろう。
最後に、先の大戦に関係したアジアの国々では、日本対する感謝の気持ちを持っている国も多い。
それは、日本が彼らを西欧の植民地支配から解放したということらしい。ある意味西欧は「奴隷制度」みたいなものをずっとやって甘い汁を搾り取っていたということだ。
これに対する意見や報道は全くと言っていいほど目につかない。
なぜか?ここでも「?」が生まれる。
そういう点も考慮に入れると、西欧は日本を完膚なきまでに叩き潰さなければ気がおさまらなかったということを思いつく。
そして、戦闘を行う兵士だけでなく、女性や子供、老人に至るまで無差別にそして大量に殺戮することで、強大な力を持つ者に逆らうことの恐ろしさを見せつけ、ことが終わると「戦争の恐ろしさ」にすり替えてその心を支配している。
だから、確かに戦争は究極の暴力行為であるけれども、そこには必ず背景が存在するということを、もっと心に刻んでおかなければならないと思うのです。