話しあいを実りあるものにするために~「受容」の大切さ~
人の集団は、協力し合って行動するために話しあいをする。
生まれも育ちも出身地とか職業とか、いろんな環境はいろんな考え方を生み出すから、人の意見はそれぞれ違う。
でも、ときとして集団として方向性を一つに選択しなければならないときがある。
その選択にいたるプロセスの中で、人は話しあいをする。
結果は出る。いずれにしても。
賛成の者もいれば、反対の者もいるだろう。
多数決なのか、代表者の最終決定なのかはわからない。
ただ、選択はその瞬間だけだが、集団行動は続いていく。
継続した時間軸の中で、選択を繰り返していかざるを得ないのが人生であり、人間だ。それは集団も同じこと。
でも、自分だけの意思で決めることと、集団の意思で決めるということは、そのプロセスによる影響が大きく異なる。
自分の決定は自分だけの自由であり、他人の意見を聞こうが聞くまいが自由。決定の責任はあくまでも自分。
だが、集団の決定は、意見の異なる者達が最終的に収斂されていく中で、それぞれの人間の心の中にいろんな感情を生み出す。
自分の意見どおりにことが運んだ者は特に異論はないだろう。
反対意見を持っていた者たちは、どう感じるか。
極端な場合、負けた、否定された、軽んじられた、などというふうに「受け取ってしまう」場合がある。
話し合いの収斂とともに、話し合いに参加した皆全員が「それでいい」と思えるような形になるのが望ましいのは当たり前。
そうならないにしても、「意見は通らなかったが、皆自分の声を真摯に聴いてくれた」と感じられるかどうかが、その後の集団の関係を作り出すのではないか。
「受容」である。「あなたはそう思うんだね」
意思決定は一つに絞られる
だが、その意思決定に向かう中で、話し合いに参加したもの同志がお互いに「受容された」と感じられることが理想的だと思う。
一つのことを決定するためには、そのほかの意見は消えていく運命
そんなことは誰もがわかっている
だけど一つに決定したとしても、自分の意見が通らなかったにしても、それをよしとし、皆で決めたことを気持ちよく遂行できるかどうか。
これの繰り返しをしていくわけだから、そこに無念や恨み、拒絶感を残してしまうのは、将来に禍根を残す可能性が高い。
だから、ここでも「人のあり方」が「その集団のあり方」にも大きく影響するということだ。
全員がお互いに「受容」できることが理想だが、少なくとも集団を束ねる人たちは「受容できる心」を持っておいたほうがよいと思う。
山口県出身の民俗学者 宮本常一の「忘れられた日本人」には、何日にもわたって話しあいを行い、物事を決定していく村民の姿が描かれている。
現代とは異なり、人間の移動能力が極めて狭い範囲に限られていた時代、地域に住む住民が一定のエリアの中で上手にお互いを受容しながらやっていかないと自分達の生死に関わるから、こういう智慧が生まれたのだと思う。
「昔の人たちはのんびりしていた」のではない。
あえてそうやって時間をかけて丁寧に物事を一緒に考え、集団として強固な意思決定を行っていたのだと思う。
これは、昔の人たちこそが「他人を受容する」ことの大切さを、一番感じていた証拠だと思う。
「自分を受容できる者が、他人を受容できる」という。
人が人として生きる限り、心を整えるということはとても大切なことだと思う。