比べてもしょうがない
昔はよく人と自分を比べてたなあ、と思う。
あの人は仕事が早いとか、評価されているとか、可愛い彼女がいるとかね(笑)
それに対して自分はどうか、とか考えては、負けまいと頑張ってみたり、「これは無理だ」と諦めてみたり、「どうせ俺なんて」と拗ねてみたりした。
でもそんなことを繰り返したって、結局きりが無いんだよね。
容姿端麗な人、記憶力のいい人、友達の多い人、口喧嘩の強い人、自分より運が良く見える人、いつも何だか楽しいそうな人・・
でもそれは自分の心が「この人は自分よりも◯◯な人だ」と思っているだけで、本当にそうなのか、相手もそう思っているのかはわからないし、第3者もそう思っているのかなんて全くわからない。
そもそも興味なんてないかもしれない。
足の速さとか、そういう単純な基準で判断できるものは確かにそういう現実はあるかもしれない。
でも、だからどうなのか?
よく武術の世界では「誰が一番強いのか」「どの流派が一番強いのか」という話題で盛り上がるけど、その議論って実は意味がない。
そもそも「強い」の定義が無いからだ。
どんなに戦闘技術を極めていても、人を傷つけることに躊躇する人は、どんな手を使ってでもやって来る相手に対しては後手を踏むだろう。
じゃあ、相手が女子供でも躊躇なく拳をふるえる者は強い者なのか、というと誰もが疑問を持つだろう。
「強い」を比べ合う究極の形が戦争であり、人類は21世紀になっても同じことを繰り返しているのが現実だ。
数千年の歴史を見れば、愚かなことはわかりきっているはずなのに、だ。
話が大きくなってしまった気がするが、実は人と比べる心は自分の中で幻と戦争をやっているようなものだ。
人は、他人と比べて自分の価値を確認する作業をすることが大好きな生き物だ。
競争することで努力するというメリットもあるが、競争の結果が全てでは無いはずなのに、ついついそこにとらわれてしまう「癖」をつけてしまう。
形となって現れるものにはそれほどの意味はない。
むしろ、そこに至った「その人の中身で何が起こっているか」こそが一番大切なものだと思う。
だから、自分の内側に関心を向けよう。
これだけ個性の異なる人間一人ひとりを一定の尺度で比較するのはほんのわずかの価値しかないのだと気がつこう。
その人は「その尺度だけで成り立っているわけではない」からだ。
みんなそうだ。ただ1方向からだけ見てもその人の価値はわからない。
まずは「今のままで素晴らしい」自分であると「自分を認める」ことが必要だと思う。
そしてその評価はその一瞬だけのもので、その人も環境も価値観も変化していくものだから。
でも中には、一定の尺度で人を比較したがる人間もいる。
こちらは人と比較することで自分の存在を正当化しようとする者だ。
彼らは「ありのまま」を認めない。
必ず自分に有利な尺度で人と比較し、それをあたかも真実が如く世間に発表する。
そうしないと自分が自分でいられないからかもしれない。
そういう人達は、実はありのままの自分を信じられていない一番可哀想な人達なのかもしれない。
自分を受容できない者は、他人も受容することができない。
世界に幸せが行き渡るように、まずは自分を認めてみてもいいんじゃないかな。