「善」か?「悪」か?で考えてない?
ゴールデンウィークの間はなんだかいつにもまして忙しくて、楽しい時間を過ごしました。
皆さんはどうでしたか?
さて、今回は「善悪」の捉え方についてです。
言葉というのは便利なようでなかなか使い方が難しいということに最近になって気がつきました。
「善悪」という価値観について、私たちは子どもの頃から慣れ親しんでいるとは思うのですが、この「善か?悪か?」という2極的な表現は、私たちの観念にこういう世界を作り出してしまいがちです。
非常に抽象的ですが、善と悪の両方を含めた四角を「世界」として捉えてください。
どうでしょう?善悪という価値観で世界をイメージしたときに、善悪の割合を含めてバッチリこういう形にはならないかもしれませんが、「この世は善か悪」みたいに、つい「どっちかに分類できる」というふうに考えていないでしょうか?
意図的というよりも、あまりこういうこと考えてないんじゃないですかね?
善悪って、あまりにも日常的に使う価値基準ですからね。
「だって、この世は善か悪かでしょう?」ってね。
では、何気ないこの善悪という言葉が生み出すイメージがどういう解釈を生んでしまうかというと、
「善でないものはすべて悪」なのです。
ちゃんと考えれば、そうでない場合も多いということは誰にでもわかると思うんですけど、何しろこういう「ちゃんと考えてみる」ことをしないと、無意識に使っている「善悪」という言葉のイメージが自分の中に間違ったイメージを固着させてしまって、「そういう目で」世界を見てしまうことになります。
「悪」のイメージはそのまんま悪ですから、一般的に「悪ではダメ」という考え方の人は多いと思います。
となると、「善でなければならない」という極端な価値観も生まれてしまう場合がある。
この価値観が固着してしまうと、自分は常に善であろうとするし、他人が善でないことを責めたりしてしまいます。
さらに、何が善で何が悪かというふうに、世界のあらゆる物事を二つに分けるといったって、その線引きは100人100様、みんな違うわけだから、「悪を責める」なんていうと、世界の皆がお互いに責め合うなんて笑えない事態もありうるわけです。
なので、「善悪」という言葉は使うんですが、これは「世界は善と悪に分けられるという意味ではない」ことを再認識しませんか。
図にするとこんな感じ。善と悪に割り切れないということは・・・
なんだか楽になりませんか?
現実に人それぞれの価値観をすべて善悪で割り切れるものではないですから、それをそのまま受け入れたら、人はお互いに楽な関係でいられると思うのですね。
普段使っている言葉が知らず知らずのうちに心の中に作り出すイメージのとらわれないようにしたほうがいいみたいですね。