善悪とは、何か? 「心」の探求は永遠に続く気がする・・・
皆さんはご存知ですか?石森章太郎の漫画作品「人造人間キカイダー」を
僕もずっとその存在を忘れていたのですが、さっきamazonプライムで久しぶりに観て、感じるものがありました。
もう何十年も前の作品ですが、この作品の「人間とは何か?」「心とは何か?」というテーマは、AIが急速に進化を遂げている現在の世界においては、とてもリアリティが高まっている気がします。
この漫画の主人公は人造人間、すなわちロボットです。
ただ、このロボット、自ら善悪を判断して行動するための「良心回路(ジェミニ)」を組み込まれていて、これが不完全なシステムであったがゆえに善と悪の狭間で苦しみながらも悪の手から人を守る悲しいヒーロー物語です。
要するに、人間からの命令をそのまま実行するのではなくて、自分の判断で行動できる自立した意思を持ったロボットというわけですね。
悲しい物語に心酔するというのは、自分の未来にはよくないかも、って最近思ったところですが、まあ、今日は話を続けます。
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「善と悪を判断できる」というと、人間よりもはるかに強靭な威力を持つロボットの脅威がやわらぐ気がするにはするのですが、その前に「善と悪」を判断するということはそんなに簡単なことではない気がします。
そして、善悪の判断が必ずしも人間を幸せにしているとは思えないのです。
この表現も難しいのですが、そもそも世の中すべてが善と悪という2つに分けられるものではないはずです。
「どっちでもいい」ものがたくさんあるはず。むしろ、この「どうでもいいもの」の方が圧倒的に多いのではないでしょうか。
だけど、どうも人間は「善と悪」の二つに分けて物事を判断するように教育されている。
子供のときに親から受ける「しつけ」がまさにそうかもしれませんね。
やって良いことと悪いこと。
危険なことと安全なこと。
他人様に迷惑をかけることと、かけないこと。
これは、自分の命を守るために必要な判断もありますし、社会の秩序を維持するために必要とも言えます。
そう、人が生きるため、多くの人たちがお互いを傷つけないための最低限の範囲での善悪は必要だとは思います。
人を傷つけてはいけない、人を殺してはいけない。
でも、こういった「善悪を真っ二つに分けて考える」ことが、「どうでもいい」世界にまで広がっていくと、途端に窮屈で行きづらい世界になっていきます。
人は、それぞれ自分が教育された、または経験から学んだ善悪で人や事象を判断する。
「善」はいいこと。
「悪」はゆるされないこと。絶対にダメなこと。
そして、思考のパターンとして「善」が生まれると、そうでないものは「悪」という短絡的な図式も成り立ってしまうのです。
そんなつもりもないけれど、「いいこと」が生まれると「悪いこと」が生まれてしまう。
「光あるところ影あり」
この宇宙の摂理なのかもしれませんが、この善悪の観念は大いに人を苦しめていると思うのです。
極端な例としては、こういう反応も成り立ちますよ。人によってはね・・・
「足が早いのはいいこと」→「足が遅いのは悪いこと」→「足が遅い自分は悪い」
「身体が柔軟なのはよいこと」→「身体が硬いのは悪いこと」→「身体が硬い自分は悪い」
こうやって、具体的に表記すれば、全然そんなことはないと理解できるのですが、「善悪のジャッジメント」を強烈に人間に叩き込むと、こういう「無意識の思考パターン」が根底にできてしまい、常にこういうものの見方で判断するくせがついてしまうのです。
先の2つの例では、自分で勝手に自己嫌悪に入ってしまい、自己肯定感が持てないということもあるでしょう。
これって、自分が持っている「善悪の観念」を書き出してみると、よくわかると思いますよ。
「すばらしいことの逆はどう思っているのか?」って考えてみるとですね・・・
こういった2つに一つのデジタルな思考パターンが、どれだけ他人や自分を責めまくることになるか、そして人生そのものを窮屈にしてしまうか。
こういった無意識的な反応パターンを作り出す原因となるものビリーフといいまして、人は自分独自の判断基準であるビリーフを土台にして、常に考え、判断し、行動します。
この善悪のジャッジメントビリーフが強ければ強いほど、明確であれば明確であるほど、「事象」はくっきり2つに分類されます。
そうなると、「悪い方」は絶対にダメなのです。否定、嫌悪、除外対象、攻撃対象・・・
これって、何か思い浮かびませんか?
いじめとか、虐待とか、なんとなくそういう行為の原動力にもなっていそうな気がしますね。
さて、人造人間キカイダーの話からはかなり離れてしまったのですが、今日は善悪を判断できる「良心回路」からこんなことを連想したところです。善悪の判断ができるということが果たして「良心」と言えるのかも含めてね・・・
物語のラストは、仲間のロボットを破壊した(殺した)主人公ジローが一言「これで俺は人間とおなじになった・・・」とつぶやいて去っていくシーンだったと思います。
そして、その後姿を遠目に写す空の部分に「人間になって本当に幸せになれたのだろうか・・・?」とも・・・
子供ながら、「人間として生きることとはどういうことか」みたいなことを考えさせられるこのラストに、なんだか切なさを感じたことを憶えています。
さて、かなり長くなってしまいましたが、「善悪の判断ができる」という言葉のイメージは良いイメージとは思うのですが、一言で「善悪」と言っても実は簡単ではないし、むしろそういう「どちらか」という考え方は、ある意味危険な気がします。
どんどん進化するAI。量子コンピューターは1か0ではなく、その中間のあいまいな部分もつかって計算するらしいですが、逆に人間が1か0かで生きているなんて、なんだか違和感です。
「善悪」でしか物事が判断できない人間がこれから何を引き起こしていくのか・・・
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