人が生まれてから死ぬまで、世界はだんだんと広がっていくのだろう
さっき風呂に入って瞑想をしていたときに、今日は思いつくことがありました。
いつか書きたいと思っている「親は家庭の中の神を演じている」というテーマから派生したことなんだけれど、これは「家庭」という限られた個別の世界のことではなく、家庭の中や社会の中に存在する一人の「人間の世界観」のことです。
大人の方は自分の人生を振り返るとすぐに納得でしょうけど、「子供が生きている世界」と「大人が生きている世界」は同じ空間に同時存在しながらも、その大きさや広さ、深さといった視点で考えると、圧倒的に違うんじゃないでしょうか。
もちろん、大人の世界の方が大きい(はず)
そしてもちろん、人それぞれにその大きさも違うのですけどね。
で、今日思いついたのは、この個人が生きる「世界」はいきなり大きくはならないよな、ってこと。
少しずつ、少しずつ、いろんなことを知って、体験して、学んだりして、そして時には失敗や絶望なんかもあったりして、広がっていく。
たった今、また思いついたんだけど、宇宙が広がり続けているようなイメージかな。
その昔、宇宙が生まれたときは、ビッグバンが起こって、一気にこの宇宙が生まれたという説がありますが、人の人生においてビッグバンのように一気に無から無限に広がるってことはあまりないような気がします。
ただ、人の中にある小宇宙という見方をすると、前世や胎内記憶を持った人たちもいますから、実は物質的にこの世に生を受けた時点で、かなり広い世界を持っているかもしれません。
多分、お釈迦様がそういう方で、確か生まれてすぐ天と地を指差して「天上天下、唯我独尊」なることをおっしゃられたとか。
でも、そのお釈迦様も、高貴な家に生まれながらもこの世の理不尽や不幸を見て悩みながら、長い修行の末に悟りを開かれたわけです。
決して、生まれたその瞬間には、その予兆は見せたものの、直ちに宇宙を悟ったわけではないみたいですね。
なので多くの人は、生まれた時点をゼロとして、親や親戚、友達や隣近所の人、そして学校、職場などなどへと世界は徐々に広がっていく。
さて、そこで最初に書いた「家族」の世界が登場します。
家族とは、人間社会の一番小さな集団と言ってもよいでしょう。
いろんな事情をお持ちの方もおられるでしょうが、生物的に考えて、まだクローン人間はいないでしょうから、少なくとも父親と母親は必ず存在することを前提にお話をします。
「家族」は物理的に範囲が限られますから、先ほどから書いている個々の人間の世界の広がりとは別の次元にあると言ってよいでしょう。
「家族」は親と子供、その他の同居の親族、もしくは住んでいる家の中など、人間関係的、居住空間的に限定されています。
ですが、その中に存在する個々の人が感じる世界の大きさはそれぞれに違っています。
それは、人間個人の「認識」の中に存在する世界だからです。
さて、今度は「家族」の中の問題です。
家族の構成は、基本的に「親」と「子」です。
それぞれに、世界を認識しています。
子供の世界は小さくて狭いですから、親は家族の中で「神」的な存在になります。
何しろ、子供は親によって養育されないと生きていけませんから、神社の神様とはまったく認識は異なりますが、まさに子供にとっては「神的な存在」なのです。
そして、親は自分の子供を愛し、一人前に育てなければならないという責任感もあり、子供に対しては最も優しい存在であるとともに、もっとも厳しい存在ともなり、変な言い方になりますが、小さな世界観の子供から見たら、「自分の命を握っている絶対的存在」として認識される。
決め付けるわけじゃないですが、親はただの一人の人間でありながら、自分を「親」として定義し、それらしくなければならないという「思い込み」で自分自身を縛ります。
先ごろ話題になった「あたし おかあさんだから」という歌の歌詞がそれを感じさせますね。
さて、子供は激しく叱られたときなどに感じる可能性が高いでしょうね。
ちなみに、これは「客観的事実」ではなく、子供が「感じる(そう思う)」という意味です。
子供は親が「親自身をどう思っているか」とか、「親だって一人の人間である」とかは認識できないでしょうね。
だって、その世界を認識できる知識や経験や実感がないですもの。「親と自分」これがすべて。特に小さいときは。
自分が経験して、知って、感じたことが、自分の世界のすべてを構成している。
妄想や空想しても、それはあくまでも想像に過ぎないから、実在する世界として認識できないでしょう。
そして、これは実はお互い様でもあります。
大人は大人の大きさの世界があって、社会の中における「それぞれの世界」を生きています。
大人だって、各自の世界の大きさの認識は全員異なっているはず。
だけど、自分の子供に対しては「親は親であり続ける」
これは物理的、生物的にそうであることは間違いないのですが、「その認識でずっと生きていって、本当にいいのでしょうか?」というところにつながります。
それは「親自身のこと」でもあり、「子供のため」でもあります。
さて、長くなりましたので、続きはまたの機会に・・・