「あたし おかあさんだから」の炎上で思うこと
元歌のお兄さんが歌っているという「あたし おかあさんだから」という歌の歌詞が呪いのようだということで、SNSで炎上しているそうです。
一部を切り取ってみると、
「あたし おかあさんだから あたしよりあなたのことばかり」
「今は服もご飯も 全部子供ばっかり」
「あたし おかあさんだから 苦手な料理頑張るの」
「あたし おかあさんだから こんなに怒れるの」
「あたし おかあさんだから いいおかあさんでいようって頑張るの」
「もし おかあさんになる前に戻れたなら 夜中に遊ぶわ ライブ行くの 自分のために服買うの それ ぜーんぶやめて いま、あたしおかあさん」
この歌詞を書いた「のぶみ」さんは、子育てに疲れたお母さんへの応援歌のつもりだったそうなのですね。
だから、歌の最後はこういうフレーズです。
「あたし おかあさんになれてよかった だって あなたにあえたから」
でも、これを聴いた多くのお母さんは「呪いのようなもの」を感じた・・・もちろん、全員じゃないでしょうけどね。
人によって好きな歌はそれぞれですが、それはやはり「その人の人生観にどう響くか」なのでしょう。
同じフレーズを聞いてもそれぞれの人の反応はみんな違うはず。
ということは、この歌詞になっている「ことば」を聞いて、嫌なイメージを思い浮かべた人が多かったということでしょうね。
確かに、お母さんの視点からすると、「私はおかあさんなんだから、子供のためにがまんしなくちゃいけない」「自分の好きなことしちゃいけない」「子供のためにぎせいにならなければならない」とも聞えますから、世のお母さん方に対して「お前がガマンするのが当たり前」という呪いの言葉をかけているようにも取れますね。
一方で子供の視点からすると「おかあさんだから 自分のしたいこともできないで あなた(子供)のことばかりやらなければならない」みたいなことを母親に思われているとすると、また、もしかしたら言われたりすると、確かに「なんだか嫌なもの」を感じます。
「僕がいるとお母さんは何かを犠牲にしているの?」「僕がいると迷惑なの?」ってね・・・
この歌詞を聞いて「どう感じるか」というところがポイントのようですね。
ところで、心理の世界では、無意識に反応するネガティブな思考は、子供時代の親との関係に由来するといいます。特に母親との関係が原因であることが多いようです。
子供の世界は大人に比べてとても小さい。経験も、記憶も、人間関係もすごく少ない。
一番身近で、自分の生存に強く関わるのが母親でしょうから、子供は母親大好きで、常に見つめているでしょう。
ほんのわずかな雰囲気や言葉も逃さないで力いっぱい見つめている・・・
その小さな世界の中のほとんどを母親や家族が埋めていて、成長していくにつれ外の世界にだんだんと広がっていく。
そして、今度は自分の世界を生きていく、はずだった。
だが、三つ子の魂百までじゃないが、小さな世界の大部分を占めていた親との関係でできてしまった「考え方のくせ」は、そう簡単には変わらないようです。
こういうしつこい「考え方のくせ」のことを、ビリーフと言います。
「大人になってからの人生を歩むのに重荷となったビリーフをリセットしていく」のが私が学んだカウンセリングの手法ですが、それはまた別の記事を読んでいただくとして、さて、この炎上騒ぎ、この歌を歌った元歌のお兄さんが謝罪する事態にもなってしまったようですが、私、この歌そのものには「呪い」は無いと思います。
この歌を聞いて「自分の中にある何か」に違和感を感じた人の中にこそ、既に「呪い」が埋め込まれているのだと思います。
先ほど説明した「小さな未熟な子供時代の価値観で作ってしまった思い込み(ビリーフ)」が・・・
だから、「こんな不愉快な歌、流すな!」と、歌のせいにして逃げたりしない方が良い気がするのです。
まさに自分の中にある「心の闇みたいなもの」に気付かせてくれる、貴重なキッカケの歌だと思います。
そして、そのビリーフは「呪い」というわけでもないですしね。
子供の頃には必要なものだった、生きるために。
ただ、大人になると要らなくなるわけですが、取り去る方法は今までなかなかわからなかった。
「今はもう要らないオートマチックな思考のシステム」
ただ、それだけのことです。
最後に、この歌の中に出てくる「おかあさん」とは一体どのような存在でしょうか?
「あたし おかあさんだから」という言葉が何度も綴られていますが、そもそも「おかあさんの定義」ってあるんでしょうか?
おかあさん「だから」って、どういう意味?
おかあさんだから、我慢して当たり前
おかあさんだから、苦手な料理もしないといけない
こういうふうに、ただ単純に「おかあさんになってしまったから、人生楽しくない」みたいな定義を作ってしまうのは辛いでしょうね。
「おかあさんだから」じゃなくて、「今この状況の中で(楽しく)生きるためには」って考えてみると、どうでしょうか?
「自分の頭の中のイメージ次第」のような気がします。
だって、「お母さんは自由だ!もっと自分の好きな時間を楽しむべきだ!」って言ったって、そこに子供はいるわけで、やっぱり手はかかりますよ。自分たちもそうであったように。
そう思えば、そこにいるのは「苦労しているひとりの人間の大人」にすぎないんですよね。
私も、親も。
理想像を描くのもいいし、努力するのもすばらしい。
でも、おかあさん「だから・・・」というふうに考えるのは、どうかなぁ・・・
「おかあさん」である前に、「ただの一人の人間」でもあるわけですから・・・
自分が考える「理想のおかあさん」でなくたって、今この瞬間は過ぎていく。
あせらないで、「私は、私」それでいいんじゃないですかねぇ?
確かに、独身でいたときよりは大幅に行動が制限されるのは間違いないでしょうが、「それも含めて、今ここをあるがままに生きる」というのはどうでしょう?
僕は、もちろんお母さんでもないし、お父さんでもないから、怒られるかもしれませんけどね(笑)