善悪のジャッジメントは「恐怖」を生み出してしまう
標題の「善悪のジャッジメント」は、現代人が当たり前のように身につけた道徳観や倫理観で、こういった規範意識があるからこそ、社会の秩序が保たれる、と思われているのですが、果たしてそれは本当でしょうか?
確かに、他人を傷つけたり、他人の物を盗んだりしたら罰せられるということは最低限必要とは思います。
ですが、世の中にはいろんな善悪が存在していて、他人を傷つけたり、殺したりといったことと同じように裁きあっているというのが今の良だと思います。
一番目にわかりやすいのが浮気や不倫ですね。
日本では一夫一婦制が法律で定められていますが、実は、一夫一婦制になったのは明治になってからで、大河ドラマとかを見てもわかるように、それまでは一夫多妻制でした。
複数の妻を養っていけるのは一部の限られた男達だけだったかもしれませんが、それがかなうならば問題にはならなかったのです。
そして、民俗学における記録には、性に関するものが多くあり、村祭りの日は他人の妻と性交をする風習だとか、賭けをして妻以外の女性と性的な関係になるということが当たり前に行われていたようです。
どうも一夫一婦制というのは、キリスト教の思想のようですね。
確かカトリックはこういうことには厳密だったので、昔イギリスの王様が離婚したかったからプロテスタントができたんでしたっけ?
そういう逸話がありますね。
さて、どっちが正しくて、どっちが正しくないのかというと、実はわからないわけです。
だって、一夫多妻制の国は世界にたくさんあるらしいですから。
でも、私たち日本人は、法律に定められているので、これに反する行為、複数の異性を恋愛的に好きになることは「違法行為」であり、「悪いこと」となります。
なので、マスコミなんかも絶好のネタとして、芸能人の不倫や浮気を狙うわけですね。
そして、こうやって他人の浮気を責めるということを繰り返すことで、国民の心の中に「罪悪感」が生まれ、複数の異性を好きになってはならない、そんなことをしたら処罰されてしまう、という「恐怖感」で支配されていくということです。
不倫や浮気を推奨しているわけではありませんが、民俗学の本とかを読んで最近感じたことです。
ただ、「善悪のジャッジメント」はとてもわかりやすい。1かゼロかですからね。
でも、人間ってそういったデジタル的に割り切れる生き物なのでしょうか?
多くの人を好きになることって、本当にそんなに「悪いこと」なのでしょうか?
かつての日本がそうであったように、世界には一夫多妻制の国がたくさんあるということを考えると疑問が生まれるし、「そういった制度」から生み出される「善悪のジャッジメント」、そして「罪悪感」や「恐怖」というのは人の心を不自由にするだけじゃないかなと思うのです。
今回は不倫や浮気というマスコミが好むゴシップネタを例にしたので、逆に抵抗があるかもしれませんが、私たちが「当たり前と思っている善悪」って、「恐怖で人を支配するもの」になってしまっているんじゃないだろうか?なんて思ったのです。