あれもダメ、これもダメじゃ、きっと世界は萎縮していくよな~

「あんなことしちゃダメでしょう」「こんなことしちゃダメでしょう」

自分もそうかもしれませんが、現代の社会の風潮は、インターネットの普及などにより情報もスピード化してしまい、なんだか生きていくのがせわしないというか、みんな心に余裕がなくなっている気がします。

そして論理的なものの考え方をするのが正しいという「考え方」に偏りすぎてしまって、「正しいか正しくないか」というジャッジメントをする傾向が非常に強い気がします。

これは、わたしたちが身の回り以外の情報を仕入れる「マスコミの習性」にも少なからず影響を受けていると感じています。

でも、この「ジャッジメント」、自分以外のことをジャッジしているように見えますが、実は「自分に対してもジャッジしている」ということにもなります。

それはなぜか?

自分が正しくないと判断することは、自分の中で「やってはいけないこと」として定義されるからです。

まさに、他人を非難するということは、同じことをすると「同様に非難されるべきもの」という定義が刷り込まれることになります。

人はそういう倫理的価値観を習得しながら社会を構成していくわけですし、それが多数の人間から「常識」という一定の共感を得る中で、日本人なら日本人の社会通念が生まれて、固体としては異なる人間だけれども、お互いによい関係を築いていけて、それぞれが安全・安心に生きていけるわけではありますが。

ただ、今回の前段で「偏り」という言葉を使いましたが、近年のメンタル不調の増加、今年は少し減りましたが自殺者の増加、学校においてはいじめの増加、職場におけるパワハラとかセクハラの増加の背景として「やっていいこと、やってはいけないことの区別」があまりにも多く、そして「強くなった」からじゃないかと思うのです。

別の視点で見ると、法令の数というのも関連してるんじゃないかな。

どんどんいろんな「規制」が明文化されていきますね。

それは、不逞の輩の最後の言い訳「法律にはやってはいけないと描いてないだろう」

よく話題になる、「何で人を殺してはいけないのか」という議論もありますね。

法律には、他人を殺すと罰せられるということが書いてあって、それを解釈すれば「他人を殺すことは悪いこと」という定義が成り立ちます。

まあ、結局、「自分達で自分達の首を絞めている、生き辛い世の中を作っていっている」という感じがしますね。

もちろん、他人を殺すとか傷つけてもよいのだ、と言っているわけでは全くありません。

しかし、そういう個々の人間の存在や生死に関わることと比較して、あまりにも細かいルールというか判断基準をどんどん作る傾向があるというのは、いただけないなと思うのです。

私はこういう見方をしています。

「人間は退化している」

こういう言い方に対する非難は多いと思いますが、ルールがないとうまく行かないとはいえ、あまりにも細かく物事をジャッジしなければならないというのは非常に窮屈だと思うのです。

こういうジャッジメントが当たり前になると、「気になり」ますよね。

頭のどこかで「ジャッジメントされる」ことを想定しながら生きる癖がついてしまう。

人と人とのコミュニケーションにおけるジャッジメントの割合が大きくなっていくというのは、「お互いを尊重する」という点からすると、逆のような気がします。

そういう生き方や関わり方が当たり前になってしまうと、なんだか「楽しくないだろうな」という感じがするわけです。

「いいか悪いか」これだけじゃ、いい勉強も、いい仕事も、未来への挑戦もし辛い気がする。

人の行動の元になるのは、こういった根本的なマインドセットがとても大きな影響を持つと思うのです。

世間に流れるジャッジメントの事象を真に受けてしまうのは、実は損なのかもしれませんね。

そして、もう一つ、果たしてそのジャッジメントは事実なのでしょうか?

人の目を引くために飾られた虚構ではないですか?

本当のことなのですか?

むしろ、こっちに目を向けることの方が大切なのかもしれませんね。

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