自己犠牲の美しさが生み出す不満のビリーフ
今日、撮り溜めしていたラジオ番組を車で聴いていたら、サラリーマンが自分の所属するチームのために「自分はどうなってもいい」と上司に訴える場面があって、ちょっと涙ぐんでしまった。
なんだか、とても美しい話。
日本人はこういう自らを犠牲にして他人のために尽くすというお話が好きな気がする。
確かに「他人のために善意をつくす」っていうのはとても良いことだとは思います。
ただ、「自己犠牲」というからには、「犠牲となってしまった人がいる」ということです。
それも「自分から望んで」そうなったという。
犠牲になった人は死んじゃったけれども、周りの人たちは助かった、もしくは幸せに暮らしましたとさ・・・というお話になると思います。
決して「どちらも幸せになりましたとさ」という話ではない。
こういう美しい話がいけないとかダメだとかいうつもりはありません。
しかし、こういった話を聴いて「勘違いが刷り込まれる」のはちょっと残念だなと思うのです。
「自分が犠牲になって(たおかげで)世界は平和になった(愛するひとたちが幸せになった)」
で、犠牲になった人は本当にそれでいいんですか?ということです。
この問いに対して、躊躇することなく笑顔で「すっごく幸せです!」と自信たっぷりに言える人は大丈夫だと思います。
もし、あなただった時に、あなたはどんな顔をして返事をしますか?
自分の犠牲のおかげで楽しく生きている人たちを遠目で見ながら、自分の心の中はどうなっていますか?
先ほどの大丈夫な人でなければ、きっと「何か引っかかる悲しさや寂しさ」を感じていませんか?
きっとそれは、あなたの本当の望みではないからです。
「私も幸せになりたかった」
そもそも、基本的に人は皆それぞれが幸せになるために生きているはずです。
だから、本当に究極の「誰かが犠牲にならなければ、全員(またはほとんどの人)が致命的なダメージを受けてしまうという、極めて稀な状況に陥らない限り、こういう選択肢を想定してはならないと思うのです。
ですが、人に対して感動や感傷を与えることが目的の映画やドラマや演劇や小説などでは、「泣ける」とかいうキャッチコピーとともに、こういった感動的な筋書きが半ば王道的に使用されます。
確かに道徳的に間違っているとかそういうことではないし、価値観として全く間違っているというわけではありません。
私も子供時代からそういう話大好きで育ってきました。
宇宙戦艦ヤマトで、白色彗星帝国にとっこうしたアンドロメダ艦長の土方司令、さらにその後登場する超巨大戦艦に特攻して大破する古代進とヤマト。
自己犠牲できる勇気と周りの人たちに対する愛情。
「自分もああいう人物でありたい」
そう思わせてくれるくらい感動と感謝の思いを与えてくれます。
ですが、そういう「極限状態の筋書きの中で描かれた自己犠牲」を「鑑賞して感動した価値観」を「現生の自分の人生の価値観」としてそのまま受け入れてしまうのはヤバイと思うのです。
そもそもそんな状況は「滅多にない」
ドラマだから、映画だから、小説だから、あくまでも作り話であって、観る人に大きな感動を与えるためのものだから、そして、そうすればするほど「経済的な見返りが得られるから」作られている価値観なんて、普遍的な人生を送っている私たちにはそうそう当てはまるものではないはずです。
でも、中に入るんですよね。「作られた感動話の価値観」をそのまま受け入れてしまうバカ素直な人間が・・・
私もそんな感じで受け取ってきたらわかるんです。
まあ、大半の人たちは軽く受け流すことができるんだろうとは思うんですが、中には「マジで真似してしまう」人たちがいるんですね。
そしてその間違った価値観は、善意であるがゆえに「間違い」とは認識されずに、受け入れられない「寂しさ」や「空しさ」とともに、ずっと心の中でくすぶり続けるようです。
そして、「自分は生きていてはいけない」だとか「自分が犠牲にさえなればなんとかなる」というふうに、大きくねじれてしまうようです。
だから、「すごく優しくていい人」なのに「不幸になりたがっている」ように見える。
長くなったので、とりあえずココでまとめ。
「犠牲なんて要らない!他人も自分も、皆一人ひとりが幸せになることをめざそう!」コレが第一!!