評価主義の対象は「個人」でいいのか?「組織」でないと意味がないのでは?
風呂に入っていて「気持ちいいなぁ~」としていたら、ふと思い出したこれまで関わってきたいろんな組織のこと
巷では良し悪しがいろいろと議論されている評価主義
自分も評価主義はあまり効果がないと思っている方なのだが、もひとつ踏み込んで、評価する側が「何を」「どの程度のスケールで」評価しようとしているかがとても重要なのではないかとひらめいた。
というのも、組織は個人の集合体であることは小学生でもわかることだが、その組織が「何を目指して」「そのためにその組織を構成する複数の個人が」「それぞれどういう役割を果したか」をわかっていないと、評価のしようがないと思うのだ。
例えば、これもすでに言い尽くされているところではあるが、内部管理部門と営業職のように、職種が違うとこれまた評価の水準ってのが公平なのかそうでないのかわからなくなりますね。
結果的に、それではこまるので、一定のルールを定めて、ある意味気合で標準化を図るわけです。
「事務職はこれが目標」「営業職はこれが目標」ってな感じですか。
でも、実際の評価って、定量的にならざるを得ないんですよね。
最終的に「上か」「下か」ってしなければならないので、ふわっとした評価では比較のしようがない。
で、こうやって「評価をする仕組み」がとりあえずできて、この基準を元に個人の評価がされていく、っていうのが一般的だと思います。
ただ、この「評価」によって「組織」を適正に管理し、成長するようにもっていくことが本当の目的ですから、「評価の仕組みは絶対に大丈夫」というふうになってしまうと、むしろ逆効果になるんじゃないか。
「変化の激しい時代」みたいなこと言うじゃないですか、よく。
では、目標が変化したときに、その評価の仕組みも当然に変化しなくてはならないですよね。
目標が変わったのに、前の目標達成に向けた評価のしくみでやっていたのでは、うまくいくわけがないですよね。
だから、本来であれば「評価のしくみ」は常に変化していかないといけない宿命をもっていると思うのです。
だから、へんな言い方をすると「評価のしくみ」を評価する「しくみ」が必要だと思うのです。
「そんなのちゃんとあるよ」って言われる組織はそれで結構。
ただ、私の場合、そういう発言をする人はあまり信用できないと思っています。
常に改善し続ける宿命を持っている場合、「これで大丈夫」という発言はありえないからです。
一定のところで踏ん切りをつけないといけないのはわかるけれども、それをつけたからといって、そこで止まってしまってはまずい。
こういうのをわかっていないと組織は腐敗していくのではないか。
そう、評価される方の個人は、よっぽど志のある人でない限り、「評価に沿った行動」をとろうとするからです。
ある意味、「マニュアル」に近くなるんだろうと思います。
「ちゃんとした評価」を得るためには、「評価基準から見て評価できる行動」をとらなければならないし、その方が「効率的」だからね。
では、「果たして組織としてそういう個人の集まりであり続ける」ことが「良い」のか「悪い」のか、を考えなければならないと思うのです。
「評価する」ということはある意味「こうやってほしい」という命令をすることになるわけですから、逆を言うと「それ以外のことは考えなくてもよい」と受け取られる場合もあると思うのです。
人の活動と評価は「立体的」です。
単に、数が多いとかいう定量的な評価だけでは、人間の組織として向上していくことは難しいでしょう。
「深いかどうか」という視点ももって評価しないといけない部分もあるでしょうね。
ただ、この「深い」という部分を評価できるのは、その「深さ」を理解できる人でないと不可能なんですね。「深さ」については・・・
ここのあたりが経営者側の「評価」ということにもなるでしょう。
そして、個人個人の活動が、組織としての評価にどのようにつながっているのか、連動しているのか。
人間の組織はロボットの集団ではありません。
個性もあるし、性格もある。
当然、組織内の個人の「合う」「合わない」も、個人の活動に影響するし、ひいては組織の活動に影響を与える。
中には、「この人が損な役割を演じてくれたからこそ、上手くいった」ということもあるだろう。
そういう「損な役割」をちゃんと評価できるしくみになっているだろうか。
ああ、こういうのをマネジメントというのかもしれないな。
そしてそのマネジメントの土台となるのが、担当者の「価値観」だと思うので、やはりその「価値観」をさらに評価しなくてはならないのが、組織のトップってことだろう。
なるほど、内の組織のトップの価値観が自分の評価につながっているのだな。
でも、まじめに考えてくれているだろうか、それは心配なところだ。