心を救う場所が必要
先日、昔の知り合いと話す機会があって、そのときに自分は将来カウンセラーになりたいことをつい話してしまいました。
お互い安定した仕事に就いていますので、「いい年になって何を夢みたいなことを」みたいなことを言われるのかなと思っていたのですが、
意外にも、そうしたかったら是非やるべきだ、のような励ましをいただきました。
というのも、その方も親族がメンタルを病んでしまってしばらく大変だったのだそうです。
もちろん、心療内科や精神科で医療を受けるのですが、「薬」では本当の意味で「心は救われない」.と感じたのだそうです。
「心の救いの場が無いので、困った。」
そいういうことを何度も口にされたのが印象的でした。
「心の病」ってのは、そんなに短期に改善するものでもないし、下手をすると物理的な「死」という問題も絡んできますので、関係者としては気が気じゃない状況が続きますからね。
でも、心療内科や精神科という医療機関の種類をあげましたが、医学会における「心」は、実は「身体の一部」というような扱いらしいです。
なので、本当の意味での「心」にアクセスできるのは、「医療」ではなく、セラピーとかカウンセリングとか、歴史があるものでは宗教、かな。
「心」というのは、きちっとした因果関係や、データがとりにくいものなので、数値だったりとか結果が見えないと「信じられない」という現代科学の限界なのでしょうね。
でも、「心」ってのは必ず存在する。人間や生き物ひとつひとつに。
それも、中身が同じものは一つとしてないわけで・・・
だから、「こうやっときゃ治る」なんていうシンプルなものではないわけですね。実は今でもよくわかっていない。
そして、「心を探求するひと」っていうのは、やっぱり一度苦しんだ人達みたいです。
子供のころから自由奔放に、ある程度の不安や悩みはあったとしても、とりあえず大きな問題もなく生きられる幸運な人たちにとっては、改めて考える必要も生じないですからね。
まあ、こういった「心の救いの場」は、要らない人には要らないわけです。
でも、実はこういう人に限って本当は必要な場合もあると思いますけどね。ですがそれはまた別の機会に。
さて、心の救いを求める人だけにしか成し得ないというのが、こういったお仕事。
物質的には豊かになったけれども、今度は「心」が問題になってきているのが現在の社会。
でも、人間社会のすべてのものは、それを構成する人間の「心」のあり方がとても重要になります。
むしろ、人間の心が物事を決めていくわけですから、これが不安定な状況では決して良い社会になるわけが無い。
もちろん、即効性もないし(すぐに結果が出るわけじゃない)、因果関係もハッキリしないから、人は西洋科学の理屈の中では自信をもって議論することすらできない」といのが実情じゃないでしょうか。
だけど、カウンセリングという技術を使って、人が自分の「心」を感じ、掘り下げていくことで、本人自身が「救い」を感じられるのであれば、絶対に必要なものだと思うんです。
何度も言いますが、唯物思想でできている西洋科学が中心となっている今の社会ではこの「心」の問題を医療として取り扱うのは難しいでしょうね。